【販売済】裏千家 十三代 圓能斎 横幅「松風」 urasenke the 13th sen, soshitsu ennosai "shofu (wind blowing through pine trees)"

裏千家 十三代 千宗室 圓能斎 1872(明治5)- 1924(大正13)

鉄中宗室は、裏千家12代直叟玄室の長男として生まれ、直叟玄室が周囲の風当たりが強く早々に隠居したため、それに伴って家督を継ぐ。13代目を継いだ鉄中宗室だが、その当時の年齢は13歳と若く、まだ知識を身に着けていない状態だったので、母に多くの知識や技術を教わることになる鉄中宗室の母は、知識と勇気を兼ね備え、勝気で男勝りな性格でもあったことから女傑茶人と呼ばれ、父の直叟玄室が隠居した後、自ら子ども達に茶道の指導を行った。

母から多くの指導を受けた鉄中宗室だが、若い頃は苦労が絶えない時期が続いたと言われている。若い頃はとても貧しい生活を強いられていた鉄中宗室だったが、「これからは東京の時代だ」と言い貧困にも関わらず東京へと転居。転居してから数日後、財界の実力者として有名な伊集院兼常から声をかけられ、茶道なんかではなく学問を志してはどうかと声をかけられる。
学費として3千円(当時の3千円は現在の5千万円以上)の大金を渡すと言われたが、鉄中宗室はそれを拒み、茶道一本で行く意思を示した。この心意気を気に入った伊集院兼常は、裏千家の後援者として厚く庇護するようになったと言われている。

その後、多くの実力者からの援護などもあり、現在の茶道への道筋を作り、裏千家の隆盛の礎を築いた。

六年の間、東京で流儀の発展に務めた鉄中宗室は京都に戻り、元伯宗旦二百五十回忌大法要茶会を営み、今日庵月報の発行なども行う。教本の発行などを通して一般への茶道普及を務め、女性の学校教育に茶道を取り入れ、夏期講習会を創始し教育方針の統一を図る為に恒例の行事とした。

書物の発行や、茶会、夏期講習会などを行い茶道を一般に広めた鉄中宗室。1924(大正13)年、52歳の若さでこの世を去る。